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The Art Notes to the Swan of Tuonela トゥオネラの白鳥に捧ぐ鑑賞ノート
死の國トゥオネラには 黒い水が流れる川がめぐり その水辺を白鳥が 荘厳にゆっくりと進んでいる
DATE: 2005/07/20(水)   CATEGORY: 歌舞伎
七月大歌舞伎《NINAGAWA 十二夜》
2005.7.20 歌舞伎座

作:ウィリアム・シェイクスピア
訳:小田島雄志
脚本:今井豊茂
演出:蜷川幸雄
装置:金井勇一郎


〈主な配役〉 *()内は原作の役名

琵琶姫(ヴァイオラ)……………………………………尾上菊之助
獅子丸(シザーリオ)……………………………………尾上菊之助
斯波主膳之助(セバスチャン)…………………………尾上菊之助
*ヴァイオラとセバスチャンは双子の兄妹/シザーリオはヴィオラの男装した姿
丸尾坊太夫(マルヴォーリオ)…………………………尾上菊五郎
捨助(フェステ *道化)………………………………尾上菊五郎
大篠左大臣(オーシーノー公爵)………………………中村信二郎
織笛姫(オリヴィア)……………………………………中村時蔵
麻阿(マライア)…………………………………………市川亀治郎
洞院鐘道(サー・トービー・ベルチ)…………………市川左團次
安藤英竹(サー・アンドルー・エーギュチーク)……尾上松緑






〈歌舞伎役者さんが演じたシェイクスピア劇〉……これ以上でもこれ以下でもない舞台でした。つまりは歌舞伎でもないし、シェイクスピア劇でもない、ふたつが離れてしまっていたどっちつかずの舞台。もっと大胆に、歌舞伎狂言として翻案しても良かったのでは?と思いました。

蜷川幸雄さんのシェイクスピアは市村正親さん主演の《リチャード三世》(1999年)一作しか拝見したことがありませんが、圧倒的にこちらの方が良い舞台でした。鏡の使用は《リチャード三世》上演時にもあり、鏡にうつり込んだ客席を群衆に見立てる効果を上げていました。



チェンバロの音色は意外にも歌舞伎の舞台にあっていましたが、オープニングのボーイ・ソプラノの質の低さにがっかり……嗚呼、こういう箇所はきちんと精度を高めて欲しいです。チェンバロと黒御簾(下座音楽)との相性は疑問です。小太鼓が特に間抜けな感じでした。早い時間に義太夫が登場したので、義太夫狂言として翻案したのかな?と思いましたが、わずかに数度登場したのみで存在理由がわかりませんでした。

舞台装置は、オープニング以外、どこかしら陰気な雰囲気が漂っています。鏡も使いすぎではないでしょうか、効果半減です。菊之助さん扮する獅子丸の舞踊の場面では、長唄連中と義太夫が掛合で登場するのですが、陰気な装置のせいかぱっとした華やぎが感じられず、見所というよりもあっさり通過・・・菊之助さんのお衣装のお色目も装置と合っていませんでした。



道化フェステ(捨助)の扱いにも苦労しているようでした。菊五郎さんの二役ではなく、もう少し若手の役者さんで軽快に闊達に演じた方が道化の役割がはっきりしたと思います。菊五郎さん扮する丸尾坊太夫も、もっと実直で堅物な感じがあれば、可笑しさ倍増だったと思います。貫禄がありすぎました。松緑さんも左團次さんも好演していましたが、舞台そのものに不具合を感じたまま拝見していますと、どうしてもお腹の底から素直に笑うことができません。

一方、亀治郎さんの麻阿は、喜劇の発端を狡猾に演出する和製マライヤにきちんと変換されており、とても良かったです。時蔵さんの織笛姫は、姫という役所なので違和感なく拝見することができましたが、歌舞伎の拵えで拝見しますと、ずいぶん口数の多い姫だなーと感じてしまいます。全体的に、歌舞伎特有の身体にため込む演技、お腹にためる演技が演出上ありませんでした。

原作では、道化は要所要所で見事な歌や文句を披露して、人間存在の哀愁や歓喜を登場人物たちや観客(読者)に裏返してみせます。が、この重要な部分が全く舞台上で表現されていませんでした。構成にメリハリが感じられなかったのも、道化の扱いの不鮮明さが原因だと思います。(例えば、要所要所の道化の役割をより鮮明にするために、宴(舞踊と音楽)のみの短い一幕を、通常公演の所作事のように挟み込んではいかがでしょうか、蜷川先生!・・・笑)



唯一の必見は、一人三役を演じた菊之助さんの清々しい存在感。琵琶姫の登場の部分は、現代劇風に大げさだったので好きではありませんでしたが、琵琶姫が男装して獅子丸として生きつつも、時折、琵琶姫の本性が語りとしぐさで思わず出てしまう様は、喜劇の中の倒錯、倒錯という名の喜劇、という風情で殊に素晴しかったです。菊之助さんの楚々とした持ち味が、素性を隠しさらに性を越境している倒錯を、きちんとした喜劇に仕立てていました。信二郎さんの大篠左大臣は堂々として気品がありました。

もつれた糸がすっと解けるラストシーン、菊之助さんが兄妹二役を演じていますので、ここをどう演出するのかしらと期待していましたが、一抹の不安の通り、そっくりさんのご登場……会場から笑いがこぼれていました。舞台とは全く違う文脈での、そっくりさんに対する笑いでしたので、その時点でこの演出は失敗だったと思います。花道の扱いも、なんだか付け足しのような感じ。絵面で決まる場面がなかったのも寂しい。




シェイクスピア劇は、科白が本当に美しい。その科白と、歌舞伎役者さんの身体、そして歌舞伎の様式美そのものが不協和音を奏でていました。身体から科白が離れてしまっていました。歌舞伎は現代劇よりも、科白と身体が不思議なかたちで一体化しています。例えば《三人吉三廓初買》の有名な台詞「月も朧に白魚の 篝も霞む春の空」は、字面だけではその魅力はハテナ?という感じですが、この七五調が歌舞伎役者さんの名調子と所作で語られると、舞台上の全てが生き生きとたち上ってきて、得も言われぬ感動がおそってきます。

歌舞伎は言葉以上に身体が物語る芸術ですので、演劇よりも、文学作品を踊りとして翻案しているバレエ作品の存在性に近いと思います。心理劇をつぶさに振付として実現したマクミランの作品は、言葉以上に言葉を紡いでいます。マクミラン振付のバレエ作品『ロミオとジュリエット』は、細やかな感情のひとひだまでもがバレエ言語に翻訳され、嗚呼、シェイクスピアってこうだったんだわ!と、その原点を刷新させるほどの魅力に満ちています。歌舞伎の歴史の流れにのってかつその歴史を一歩進め、時代を経て繰り返し演じられる古典となるには〈急所をはずさない(三浦雅士)〉ことが必須ではないでしょうか。

翻案しても原点の魅力を失わない、むしろ、翻案すればする程に、魅力を増すのがシェイクスピアの偉大さ……振付家が物語を踊りに置き換えるように、シェイクスピアを歌舞伎の様式美に素直に置き換える方が自然だと思いました。時に無謀とも思える飛躍が不可欠かと。



蜷川幸雄さんのシェイクスピアは当初、小田島雄志さんの御訳を使用していましたが、途中から松岡和子さんに変更されました。今回は小田島雄志さんの御訳を底本にしています。おそらく、劇中の言葉遊びが翻訳そのままでしたので、そのせいかな?と。

野田版新作歌舞伎のような醜悪さはありませんでしたが、この方向性でのシェイクスピアには限界があると思いました。歌舞伎の様式に寄り添った大胆な翻案での次作に期待。バズ・ラーマンの《ロミオとジュリエット》のように弾けたものを! 





 翻訳とは瞬間的に、

 かつ意味という無限小の一点においてのみ

 原作と接触したのち、

 忠実の法則に従いつつ、

 言語運動の自由において

 翻訳独自の軌道を辿ってゆく
                      ……ヴァルター・ベンヤミン




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DATE: 2005/06/18(土)   CATEGORY: 歌舞伎
六月大歌舞伎
2005.6.18 歌舞伎座にて


美しき男たちによる一幅の絵画
~吉右衛門さんと仁左衛門さんの大顔合せ~




《盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)》
四世鶴屋南北・作/郡司正勝・補綴・演出/織田紘二・演出



南北物は生世話というけれど、生世話が極まると逆に時代がかって、格調高い詩的な世界が現出するのだなー、と実感した一夜でした。

序幕・第一場〈佃沖新地鼻の場〉、佃沖で仁左衛門さん扮する笹野屋三五郎の漕ぐ船に、時蔵さん扮する芸者小万が乗っている。夫婦と策謀の会話があり、そこへ一艘の屋形船。小万に想いを寄せる吉右衛門さん扮する薩摩源五兵衛が現れて言葉を交わし、絵面で幕……男お二方のお美しいことといったら! 江戸前の浮薄な船頭をすっきりとした色気で演じる水もしたたるいい男、仁左衛門さん・・・なんたって台詞回しがたまらないです、、、嗚呼、この清々しい色っぽさは歌舞伎の世界にしか存在致しません。一方、浮世離れ感のある浪人を艶っとまずは柔らかく、紗の羽織を粋に着流す吉右衛門さん・・・絵画です、美しすぎます。。。

時蔵さんの小万は、芸者よりも女房の方に重点を置いた解釈で、世話っぽさが増していて好みではないけれど、不思議と不快感はなかった。たぶん、それによって小万が地味に見え、男二人が際だって煌めいた景色になっていたからだと思う。妲妃と異名を取る芸者にはみえません。。。

一番の見せ場は、大詰・第一場〈四谷鬼横町の場〉。三五郎と小万の手酷い裏切りの報復に、二人を殺そうとした源五兵衛であったが、すんでのところで取り逃がし、そののちついに小万を惨殺するという幕。

浮世離れした浪人の吉右衛門さんが、しだいに鬼になってゆく。小万の惨殺の仕方がすごい。ずったずったに刺した挙げ句、小万の手を取って刀を握らせ、その手で小万の赤子までも殺してしまう残虐ぶり……。

ここにあるのは、鬼になった人間の壮絶。そしてそれが、残酷とか悪徳とかいう次元ではなくて、一篇の詩、一幅の絵画、つまりはひとつの美として、格調高く圧倒的に実現されているところがすごい! これは奇跡としか云いようがありません。

南北と吉右衛門さんが時代を超えて出会った奇跡・・・吉右衛門さんの拵え、黒の紋付き羽二重に猩々緋の裾回しが、鬼の壮絶と血の壮絶の表裏となって、心情を彩る、、、嗚呼、贅沢を申し上げれば、時蔵さんではなく、玉三郎さんだったら、完璧の極致。時蔵さんの方が、人間の暗部を照射することを物語的に助けていると思うけれど、ここに必要なのは、完璧な美。完璧な美とは、いっさいの歴史や時間や物語を無にして、ただただそこに美があってしまうという状況・・・

玉三郎さんであれば、鬼の壮絶を受けとめる冷たい妖気、鬼の壮絶を照り返す血の鮮烈を、ただただ美として存在させたに違いない。全ての物事が寸分の狂いもなく動いてゆく精密さと自然物のようにさらりと存在してしまう明白さの中からのみ生まれ出る、一幅の絵画、時を止めてしまうほどの一幅の絵画!



黙阿弥物が、朗々と詠う絵巻もの風の狂言であるならば、南北物は一枚の絵画が屹立する狂言なのかもしれません。




DATE: 2005/05/11(水)   CATEGORY: 歌舞伎
中村勘三郎襲名披露公演
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2005.5.11 歌舞伎座にて


号泣の理由……



野田版『研辰の討たれ』



長い年月、様々な人々によって受け継がれてきた遺産が、壊されてゆく哀しさ、虚しさよ……嗚呼、センスと誇りを欠いた権力って恐いです。あのような演目が歌舞伎座の舞台にかけられてしまうのですね、しかも、玉三郎さんの美の逸品『鷺娘』の30分後に。『鷺娘』の感動をわたくしに返してください。

嫌悪感に震えた2時間でした。幕間で帰ろうと思ったら、幕間がなかった。 現代歌舞伎ではありません、出来の悪い現代劇です。お笑いの質はテレビ以下、叫び系の発声法(まだ中日にもなっていないのに、みなさん、お声が嗄れていました)、何をしゃべっているのかわからない早口奏法、陳腐な舞台セット、話の筋も見せ所も不鮮明、加えて、しつこい、くどい。これが一番苦しかったです。勘三郎さんの芸がもともとくどい上に、後半のツラネのしつこいことといったら・・・


歌舞伎に限らず日本の伝統芸能は、内に向かう表現様式が多い。西洋の舞踊や演劇がどこかスポーツに似て、外への発散を伴った表現形式であるのとは対照的である。そのため、数々の所作にはひとつひとつ厳密な意味や様式があり、舞踊に至っては、歌付きの音楽に添って舞うという希有なものとなっている。様式は決して制限や縛りではなく、共通の輪郭線(日本特有の普遍性)であり、そこに身を預けることは歴史を受肉化することであり、また、自己をことさら顕示しなくとも個性が発揮できる仕掛けになっている。


野田版『研辰の討たれ』で演ずる歌舞伎役者さんがどこか楽しげに見えるとするならば、通常とは違った、外へ外へと向かう舞台上での発散方法に触れ、「あ~いい汗かいた」系の清々しさに過ぎないと思います。そんな内輪っぽいもの、観客が見せられても全然面白くない……はずなのに、客席は隅々まで大盛り上がり・・・腹心の友と二人、孤島に取り残されたような気分でした。猿之助さんのスーパー歌舞伎が(好みではないけれど)如何に筋が通っているか、わかりました。



あはれ、『鷺娘』の号泣が、美の崩壊への号泣に変わってしまうとは! 7月の蜷川さんに期待を寄せたいと思います。
DATE: 2005/04/17(日)   CATEGORY: 歌舞伎
中村勘三郎襲名披露公演
2005.4.17 歌舞伎座にて


勘三郎さんの芸は、肌に合わない・・・みたい。




前奏曲として、まずは友人・薔薇郎情報による明治23年創業の新橋の錠前屋《堀商店》を見物。クラシカルな建物と飽くなき錠前への情熱に独身貴族の会一同、敬礼! 周囲のモダーンな建築物の中で、ポツンと少し寂しそうな風情……嗚呼、この麗しき建築物の横に美意識の欠片もない建物を建ててしまうこの哀れなセンスよ!

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堀商店入口石段の《H》

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堀商店外観(一部)



歌舞伎十八番の『毛抜』。完成度の高い一幕でした! 團十郎さん扮する弾正のお衣装のアヴァンギャルドなことと言ったら! 愛嬌たっぷりのバイセクシャルぶりも必見。『暫』もそうでしたが、團十郎さんの爽快な華やぎは「嗚呼、歌舞伎を観ている……」という幸せな気持ちにさせてくれます。ええ、確かに現代人ではないです、彼、元禄の人です、きっと。海老蔵さんはどうしちゃったのかしら? 随分なよなよとした勅使だったこと。まわりを固めた役者さんがよろしかっただけに、ちょっと浮いていました。


口上の舞台美術は金子國義さんでした。モダンという名の地味……?


『籠釣瓶花街酔醒』、勘三郎さんの佐野次郎左衛門は田舎もんの野暮ったさは良かったけれど、愛想尽かしの後の科白が伏線はりすぎ(怨念強すぎ)です。それゆえ、殺しに一直線に繋がっていて、最後の科白

「籠釣瓶は、、、よく切れるなぁ、、、」

がなんだか凶々しく聞えて抵抗がありました。吉右衛門さんの次郎左衛門は、あの科白での幕切れを妙に納得してしまう不思議があります。

でもなによりも「歌舞伎を観ている!」という感動が薄いのがちょっと寂しい。ぱっと大輪の花が咲いたような夢舞台ではなくて、なんだか人の良いご近所のおじちゃんが舞台にあがってこちょこちょやってる感がある。客席と舞台が地続きな感じがするのです、生活感を引きずっている、と申しましょうか・・・きっと、サービス精神旺盛なところ(所謂、親しみのある)が、わたくしにはネガティヴにうつってしまうのだと思います。「恥(はじ)」を「はずぅうぃ(正確に書けない)」と発音する方向性の口跡も苦手です。

富十郎さんや魁春さんのような方が脇を固めるとやはり舞台が引き締まります。魁春さんはやっぱり可愛ゆらしいです。この清楚な品格は出そうとしても出せませんもの。仁左衛門の繁山栄之丞は想像以上の素敵ぶり・・・嗚呼、これじゃぁ、次郎左衛門も振られちゃうよ。梅玉さんの栄之丞より浪人の無頼の風情が良い塩梅で出ていました。着替えのシーンは梅玉さんの方が格段に美しかった。こういう、日常の何気ない所作を美しくこなせるのはさすが歌舞伎役者さんです。心底感動します。


この栄之丞のお衣装、縮緬お納戸色の角通し……実は、以前、梅玉さんの栄之丞を拝見しました時、あまりの格好良さに速攻(我が身を省みず)同じ反物を探しにかかりました。でも、縮緬の江戸小紋はさすがに着こなす自信がありませんので、普通の正絹のお納戸色角通しを手に入れてさっそくお仕立て・・・現実はさておき、気分は栄之丞です。


玉三郎さんの八ツ橋は、花魁の貫禄充分でしたが体温低めでした。愛想尽かしの場面は、胡弓のたゆたう風の音色が八ツ橋の心情の細かな襞を演出していて、それに連なる玉三郎さんの科白も、語尾を半音あげて空気にとかす技法(但、ほんのわずかに)で曰く言い難い切なさ・やるせなさを感じるのですが、なぜか勘三郎さんの次郎左衛門を視界に入れると、一転冷徹な雰囲気となり、今回のお二人の組み合わせ、あまりよろしくないかも、と思いました。


玉三郎さんは、團十郎さん→吉右衛門さん→仁左衛門さんの順番で、お芝居がノっているように思います。絵的には仁左衛門さんとの組み合わせが一番好き。


「ちゃくみ(茶・黒・緑)」の定式幕が、当日は、江戸時代の中村屋の定式幕(茶・黒・白)に。すっきりとした色合いが美しく新鮮でした。でも、魁春さんや海老蔵さんの襲名披露の時は、平日でも劇場全体が華やぎに包まれてお祝いムードでしたのに、休日にもかかわらず、ちょっと静かな雰囲気。大向うさんも心なしか少なかったです。



個人的にあまりピンとこない勘三郎さんですが、お目出たいご襲名を心からお祝いしたいと思います。
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