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The Art Notes to the Swan of Tuonela トゥオネラの白鳥に捧ぐ鑑賞ノート
死の國トゥオネラには 黒い水が流れる川がめぐり その水辺を白鳥が 荘厳にゆっくりと進んでいる
DATE: 2010/09/15(水)   CATEGORY: バレエ・ダンス
半喪のパ・ド・ドゥ
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ヴァニラ画報・ヴァニラの書匣に(1ヶ月以上前になりますが)寄稿しました♪
ご高覧頂ければ幸いです。

→バレエへの夢想~《死都ブリュージュ──半喪のパ・ド・ドゥ》



常々、バレエを愛する身としては、年齢を重ね、精神の充実をたたえたダンスール・ノーブル達が、肉体の衰えから、引退しないまでもクラシックバレエを踊るのをしだいに控え、コンテンポラリーに移行して活動してゆくことに深い悲しみを覚えてきました。そうなると、男性舞踊手はとどのつまり、飛んだり跳ねたり持ち上げたりってこと?
──と。

歳を重ねたからこそ表現できる愁いとか悲哀とか・・・お顔の彫りに蔭深く漂う男性舞踊手のそんなお姿を、あくまでも全幕のバレエでたっぷりみたい!
──と。

(全幕バレエとしては、ジョン・クランコの《オネーギン》が唯一といってもいいぐらいでしょうか? 清々しい青年では物足りませんものネ。数年前に観たルグリさんが素晴らしかったです♪)


そういう意味で、ローデンバック『死都ブリュージュ』は以前から壮年のダンスール・ノーブルが大活躍できる物語だわ!と思っていました。だって、主人公は妻に先立たれて憔悴しきっている40代の男やもめですよ。颯爽とした青年は門前払い。男やもめには飛んだり跳ねたりは不似合いですからすなわち精神性の深い舞踊表現になりますゆえ、壮年の舞踊手でも体力的に全幕踊れます。そしてブリュージュの町中で亡き妻に瓜二つのジャーヌに出会うなんて・・・これまたバレエの常套句。《白鳥の湖》のオデット/オディールのように、バレリーナの一人二役にうってつけ。さらにはベギーヌ会修道女に群舞を踊らせちゃえ! 
──と。

(それにしても群舞を発明したバレエて、すごいわ。群舞は主人公の感情のゆれを克明に描いてみせたり、死とか恐れとか抽象的な物事の質感であったり、はたまた阿片による幻影であったりと、イメージを視覚的なボリュームで観客にみせてくれます・・・嗚呼! 美。)





と、ここまで書いて、あまりにもニッチな妄想だと判明。ニッチ派原稿を受け入れて下さったヴァニラ画廊さんにはほんとうに感謝いがいありません。ありがとうございました。


そんでもって、妄想ついでにキャスティングまでしちゃった!

やっぱり振付はプティに依頼。《プルースト》みたいな雰囲気でお願いします!大好きなエレミヤの哀歌(文語訳)もさりげなく小粋に織り交ぜてみたので、それをジャルスキーさんに歌ってもらいます。美術はクノップフさんお願いしますね。ブリュージュをたくさん書いてきましたもの、ネ。 主人公のユーグはルグリさん、孤独が似合います。悲壮感という点でルグリさんに合うのはアニエス女史。亡き妻/ジャーヌの二面性も似合いそうです。そして台本は我らがミストレス・ノール!
──と?




完。





そして拙作《皮膚と遺髪のネック・ブローチI ~ 夜の喪章》のヴァニラ画廊での常設展示は今月末までですのでどうぞ4649♪
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DATE: 2007/12/26(水)   CATEGORY: バレエ・ダンス
静寂という名の奇跡
孤高倶楽部の今月の会合はシルヴィ・ギエムさんの観劇でした。

2007.12.10 東京文化会館

★ノイマイヤー振付『椿姫』 シルヴィ・ギエム&ニコラ・ル・リッシュ
(素晴らしいことは大前提で)ギエムさんがもう少しお歳を召されてからの方がより似合うと思います、だって、あんまり病気には見えないのですもの・・・(以前拝見したアシュトン版の方が素敵でした)。それにしても、ノイマイヤー氏のコレオグラフィの叙情性は言葉を完全に超えています! これがあたかも言葉そのものであるような風情。

★マリファント振付『TWO』 シルヴィ・ギエム
今回もこころを締め付けられて、号泣。この演目は二階席以上での観劇をおすすめします。照明はいっけん単調に見えて複雑なので、その効果を堪能するには1階席では限界があります。ダンサー、振付、音楽、照明すべてがこれ以上ないほど鋭利に調和した舞台。現代とはこのことを指すのでございますね・・・。

★マリファント振付『PUSH』 シルヴィ・ギエム&ラッセル・マリファント
言葉にできません。奇跡を前に、呆然と打ち震える以外何ができるでしょうか! いったいわたしたちは、何を目撃したのでしょう・・・。 かつて、いま、いつか、あそこ、ここ、どこか・・・時間、空間さえも判然としません。全ての要素が極限まで放射して、そこにぽっかり残った闇が奇跡のように美しいしずくであるような詩情、触れてはいけない秘密に触れずに到達してしまった光の孤独。その奇跡のしずくが自分の胸奥の泉に落ち、これから永遠にそこで眠り続ける感激をどう表現すれば良いのか・・・しばし時間が経った今でも、言葉になりません。

ラッセル・マリファント氏は、今世紀最大のコレオグラファであることは間違ありません。

二年前に同じ『PUSH』をシルヴィ・ギエム&マッシモ・ムッルのコンビで拝見しましたが、別の作品であるかのようにムードがまったく違いました。今回の舞台にあったのは、ただただ、奇跡の静寂。湖面のように冷たく儚くきらきらした、ふるえるほどエレガントな静寂でした。
DATE: 2007/10/25(木)   CATEGORY: バレエ・ダンス
DVD 熊川哲也《若者と死》
英国ロイヤルバレエ団を昨年退団したダーシー・バッセルさんと、ロイヤルバレエ団出身でKバレエカンパニーを主宰する熊川哲也さんによる《若者と死》。

ジャン・コクトー台本、ローラン・プティ振付という、良き時代のパリ薫る名品中の名品。当ブログでもこれまで何度か取り上げてきました。《若者と死》といえば、映画《ホワイトナイツ》の冒頭で踊られるミーシャことミハエル・バリシニコフ氏のものが有名です。熊川哲也さんの《若者と死》は以前一度舞台でも拝見していますが、わたしにとっての一番はやはり、バリシニコフ氏によるものです(彼のお顔はちょっと苦手なのですが、踊り出すと、そんなこともふっとぶから不思議・・・)。

この作品は超絶技巧がちりばめられているので、踊られるダンサーの方々は、わたしが言うまでもなく歴史に名を残すほどのダンサーです。技巧のみならず、表現力や作品に対する解釈も超一流です。このように、人類の至宝級レベルに達している方々の作品を観たとき・・・その善し悪し(というよりも、良いに決まっているので、主観的な好き嫌い)を分かつのは、いったい何なのでしょう・・・?

それは、「生まれ」とか「育ち」「容姿」「品格」など、本人の努力ではいかんともし難い部分にあるように思えてなりません。

この作品にはやはり、コクトーが生きた時代、バレエ・リュスのムード、倦怠や退廃、そして何よりもそこにきらめく若者の乾いた狂気・・・が必須。それなくしては、安っぽいメロドラマ風の匂いがしてしまいます。生々しい湿度や体温は不要ですが、かといって、行き場のない情熱なくしてはこの作品は成り立ちません。乾いた皮膚の下で、情熱のほとばしりが皮膚を破ろうとせめぎ合っているとでも申しましょうか・・・退廃的な狂気、鬱屈した精神の倦怠、それらがあくまでも乾いていなければならないのです!

《若者と死》の舞台について、コクトーは著作《存在困難》「ある身振り劇(ミモドラム)について」の中で、こう書いています。

「全体が、どぎつい照明や投影、華麗と汚穢、高貴と卑賤の混合によって、ボードレール的世界の様相を呈している。」(『ジャン・コクトー全集V』《存在困難》朝吹三吉訳/東京創元社より抜粋)



高貴と卑賤! 嗚呼、なんてなんて胸を締め付ける一節なのでしょう! このコクトーの世界を完璧に満たしているのが、バリシニコフ氏による《若者と死》であるように思います。一部割愛されているのが残念ですが、どの部分も、コンマ数ミリのズレも想像できないほど、その世界観は完璧です。そして、このような完璧はすなわち自然そのものなのだ、ということに胸を打たれます。自然そのものとはすなわち、この作品がまるで自然物のようなさりげなさで現実に存在している、という驚異。演じているのは事実だけれども、観る者に真実を感じさせる、という意味での自然。

熊川哲也さんのそれは、このDVDの《若者と死》も良いかもしれないけれども、舞台上での《若者と死》もありえるだろうし、あのステップが少し右にずれても、またあの箇所の解釈が違っていても、それはそれで見応えがあるだろう・・・という具合に、可能性がいっぱい。バリシニコフ氏のそれは、他の可能性をまったく想像できない、唯一の《若者と死》です。

その振り幅を決定しているのは決してご本人の技巧や表現力、芸術性ではありません。容姿やわずかな仕草からにじみでる歴史に連なった品格・・・誤解を恐れずに言えば、日本人には不似合いの演目、いえ、最も遠い場所にある世界観だと思えてなりません。

熊川哲也さんが踊られたプティの作品であれば、『カルメン』や『ボレロ』の方が圧倒的に素晴らしいと思います。これまで拝見した中で一番似合っていたのは、『放蕩息子』。こちらはダントツの素晴らしさでした。



ひとつの作品を観たとき、自分と作品との間に何か漠としたムードが動き始めます。言葉ではなかなか表現しにくい諸々のざわめき・・・それは、ダンサー本人のあずかり知らぬところで発散されている「選ばれしことの恍惚と不安」であるように思います。匂いのように、形なく立ち上がるけれど、確実に存在し、感受できるもの・・・人々の記憶に強く訴えかけ、真実を残してゆくもの。芸術家は、本当に選ばれし数少ない人間なのだ!と、感動にむせび泣きたくなります。選ばれしゆえにたましいは孤独、その孤独のふるえが観る者の胸を締め付けるのです。

猛暑の中行った、「ヴィスコンティの遺香」展でも思いを同じくしました。やっぱり、名家とか貴族がいなければ! 努力では決して手に入らないもの・・・この、まばゆいばかりにきらめく存在に、こころからの敬意を!



ヌレエフ氏は好きなダンサーですが、《若者と死》は肉感ありすぎて苦手。ニコラ・ル・リッシュ氏のそれは、死神が登場してからの方が見応えあります。ゼレンスキーさんは苦手でしたが、ザハロワさんの死神は最高でした。



DATE: 2007/09/23(日)   CATEGORY: バレエ・ダンス
Ballets Russes
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映画《バレエ・リュス 踊る歓び、生きる歓び》が来春公開されます!
→映画《バレエ・リュス》

2年後の2009年はバレエ・リュス100周年。飛行機恐怖症ですが、なにがなんでもその年はパリに行きたい。きっといろんな催しものが開催されるはず。その前にまず、暗所恐怖症を完璧に克服して、映画見なきゃ。
DATE: 2007/09/18(火)   CATEGORY: バレエ・ダンス
《舞台芸術の世界》
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レオン・バクスト
ワツラフ・ニジンスキーのための衣装デザイン
(上演されなかったバレエ『ペリ』より)


東京都庭園美術館で開催された《舞台芸術の世界~ディアギレフのロシアバレエと舞台デザイン~》を拝見してきました。

何より、ここの建物が震えるほど好きです。香水塔、ですって! なんて素敵な存在! ラリックのガラス・レリーフ扉は端正な美しさ、エッチング・ガラスパネルをはめこんだ大客室の扉はアール・デコ炸裂です(一部、破損していて残念でしたが)。

展覧会は、この素晴らしき建物のお陰で、バレエ・リュスに想いを馳せるに十分なムードを持っていました。レオン・バクスト、アレクサンドル・ブノワ、そしてジョルジュ・バルビエ、彼らのエキゾチックな原画に加え、本物の舞台衣装! 圧巻です。刺繍のひと針、染めのひと筆に、ディアギレフを中心として芸術家たちがいっせいに花を咲かせた、むせ返るような芳香が焚きしめられていました。嗚呼、なんてなんて素敵な時代なのでしょうか・・・

バルビエとモンテネグロがそれぞれニジンスキーを描いた版画集は、それはそれは見事でした。バルビエの、優しく甘さの香る筆致に対し、モンテネグロのそれは、魔性を含んでエッジが効いています。ニジンスキーが当時の人々を陶酔させた様子が、薄い紙面に留められているかのよう・・・それを観るわたくしたちも芳しい酩酊に夢うつつ、です。

ブノワによる《ペトルーシュカ》の衣装、可憐で可憐で、涙が出そうでした。時間を経て風化しつつある糸や布の、なんという高貴さでしょうか。着られることを永遠に待ち続ける、衣装の悲哀が其処にはありました。

つい先日、東京バレエ団による《ペトルーシュカ》を拝見してきました。本当は、マラーホフさんがペトルーシュカ役を踊られるはずでしたが怪我で降板、かわりにオペラ座の元エトワール、ローラン・イレール氏が踊られました。以前にも一度拝見しましたが、とにかく、プロダクションの完成度が素晴らしいです。でもやはり、ロシア人であるマラーホフさんで観たかった。ペトルーシュカの狂気と悲哀は、ロシアのエキゾチシズムぬきには語れないのですもの・・・

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レオン・バクスト
『牧神』を踊るワツラフ・ニジンスキー


ついでに、同日の演目、《レ・シルフィード》は小出領子さんがはやり他の追随を許さぬほどの可憐(このバレエ団で一番のダンサーだと思います)、マチアス・エイマン氏の《薔薇の精》は、元気良すぎで妖精じゃない、シャルル・ジュド氏の《牧神の午後》は、牧神じゃない午後、という感じ。マラーホフさんの不在が際だってしまった舞台でした・・・(空席もとても目立った)。

展覧会に話を戻して・・・
気になる展示品を発見。ピカソ他がイラストを描いているプログラム《ロシア芸術家協会主催 倒錯仮装大舞踏会》。倒錯、仮装、そして、大舞踏会・・・す、すごすぎる! どんな風に倒錯した仮装を彼らは展開したのでしょうか! こんな素敵なイベントに、いつか参加してみたいものです。

ところで・・・
庭園美術館内のロビー風のカフェ、こちらで頂けるあんみつと嶺岡豆腐(ミルクのゼリー寄せ)がモーレツに美味しい!(外のカフェでも頂けます) 控えめで繊細なおいしさですが、こころの中は絶叫です。

しかしながら、不満足がひとつ。今回のカタログの正誤表、なんと、27箇所! 多すぎです。せっかくの素晴らしい展覧会ですのに、どういう校正をなさっているのかしらん? [誤:山賊]→[正:海賊]、ウィットに富んだ間違い方でしたが。


DATE: 2006/09/06(水)   CATEGORY: バレエ・ダンス
吉田都さんが・・・
英国ロイヤルバレエ団・プリンシパルの吉田都さんが、
Kバレエカンパニーに移籍されるそうです!

正統なロイヤルスタイルを知るお二人の共演が
これからたくさん拝見できるなんて・・・! 嗚呼、素敵です。

都さんのポアントは、そよ風のように柔らかく繊細。
その華やぎからは、お人柄が感じられます。
嗚呼、これって、西洋人の舞踊手には存在しない輝き……
島添さんと共に、大・大・大好きなバレリーナです。

→移籍会見

『二羽の鳩』と『くるみ割り人形』は、必見です!


DATE: 2006/07/05(水)   CATEGORY: バレエ・ダンス
ローラン・プティの《こうもり》
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ワルツ、カンカン、
旋回するスカートとフリル。

愛する夫は夜になると
「こうもり」に変身し、
仮面舞踏会に出かけ
ご婦人たちを誘惑しますが、
とりわけ可愛い1900年代風に変装した
自分の妻に彼はめろめろ。

二人はお互いに正体を隠したまま
愛し合い、
そして家に戻り、
夫・妻・子供たちの家族愛という
幸福を再び見出します。

このお話はあまり道徳的ではありません、

「けれど、一度だけならいいでしょう?」

だって、ヨハン・シュトラウスの音楽が
私たちに夢を見させ、
こんなにも踊らせるんですから。

         ……ローラン・プティ

         《こうもり》パンフレットより抜粋



2006.5.20 新国立劇場 オペラ劇場

振付:ローラン・プティ
音楽:ヨハン・シュトラウス二世

ベラ:アレッサンドラ・フェリ
ヨハン:ロバート・テューズリー
ウルリック:小嶋直也



プティ! プティ! プティ! 
生粋のパリジャンの君、による舞台です。

フェリさんの愛らしさとコケットリーはそれだけでゴージャス。

こうもりに変身して、寝室を(本当に)飛び立つテューズリーさん……
これほどまでに、こうもりの羽が似合う御方はそうはいまい。

キャスト変更でご出演の小嶋直也さんのウィットは、
驚くほどの切れ味で素晴らしかった。



ところで・・・

とっても有名な話だと思うのだけれども、
パンフレットで初めて知ったこと。
あの《repetto》は、プティのお母様が作ったんですって!
知らなかった・・・

偶然にもこの日、腹心の友は、
紺リネンのスーツに、repettoのZIZIを合わせていたのだった。

DATE: 2006/06/12(月)   CATEGORY: バレエ・ダンス
Kバレエカンパニー《ジゼル》
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ウィリアム・ターナー
《遠景に座るジプシーたちのいるブナ林》




2006.5.19 東京文化会館

演出・再振付:熊川哲也
原振付:マリウス・プティパ
   (ジャン・コラーリ、ジュール・ペロー版による)
音楽:アドルフ・アダン
舞台美術・衣装:ピーター・ファーマー
照明:足立恒



アルブレヒト:熊川哲也
ジゼル:ヴィヴィアナ・デュランテ(予定の康村和恵さんは怪我で降板)
ヒラリオン:スチュアート・キャシディ
母ベルト:ロザリン・エア
ウィリの女王ミルタ:長田佳世





とにかく、壮絶なほどに、ピーター・ファーマー氏の舞台美術が素晴らしい! ターナー、コンスタブルにはじまる、英国風景画の系譜である。

(設定では、中世、ドイツのとある農村とあるけれど)何処、と特定できない、しかしこの世のどこかにひっそりと存在している森奥の村を思わせ、ロマンティック・バレエにふさわしい幻想を見事に描ききっていました。そして衣装の色調も、葡萄の収穫期をむかえた森の鬱蒼に寄り添い、劇中ずっと、この村のあえかな肌合いを感じさせる効果を上げていました。

第一幕、群舞の色調が、震えるほどに、美しい。村人たちがまとう衣装の橙色が、静けさの森から実りの豊穣をふっと匂わせる。そして次に、葡萄しぼり機とともに群舞に加わった男女3組が、一段明るい色目の山吹色を基調としたお衣装で登場する……背景の森が、橙色で柔らかく色づけされ、そこに豊穣を祝う歓喜のごとく、山吹色がぐっと舞台からせり出してくる! ・・・美しい。

そして、足立恒氏の緻密典雅な照明が、その森にリアリティと幻想の両方を絶妙に与えていました・・・無条件に、麗しい! 殊に、第二幕の朝を迎えるシーンが絶品。ウィリたちのたましいを鎮魂し、アルブレヒトのこころを優しく包み込むように、繊細に、やわらかく、うっすらと朝日が射してくる……このメランコリーは、涙なしには拝見できません。

スモークの使用も、どうなのかしら・・と疑問でしたが、違和感ないどころか、効果的に使われていました。



ヴィヴィアナさんのジゼルは、個人的に好みではありません。ちょっと、鬼気迫りすぎ・・・。もう少し、線の細い、儚さと清純をたたえるジゼルが好きです。(康村さんはきっと、この文脈だと思うのですが……)

熊川さんのアルブレヒトは、さっそうとした清々しさと芯の強さを併せ持つ青年でした。マラーホフさんのような繊細はありませんが、ご自身のムードに誠実で、とても似合っていました。第一幕最後のシーンは、ジゼルが死んだ傍で(舞台から消えないで)そのまま項垂れ、幕を閉じます(DVDでは、ジゼルを抱きかかえて幕)。映画『ダンサー』(映画としてはB級ですが、《ジゼル》の舞台づくりを堪能できます)で、バリシニコフさんが同様に演じています(ジゼルを抱きかかえて幕)。

ミルタ役の長田佳世さん(NHKのロシア語講座に出演中)も品のあるバレリーナで、きっぱりとした存在感が、ウィリの浮遊感をより引き立たせていました。ヒラリオン、母べルトがしっかりと脇を固めているので、ジゼルの物語が鮮明にこころを打ちました。





熊川さんが改訂する古典作品群へ、こころからひれ伏したいと思います。


今夏のKバレエカンパニー「サマー・トリプル・ビル」の《若者と死》は、必見です!(熊川さんにとって&バレエの歴史にとって、記念碑的作品となるに違いない……個人的期待ですが)



★ブログ内《若者と死》関連記事
ザハロワさん&ゼレンスキー氏の《若者と死》
映画『ホワイトナイツ』冒頭、バリシニコフさんによる《若者と死》
DATE: 2006/05/27(土)   CATEGORY: バレエ・ダンス
ロシア国立ボリショイ・バレエ団《ファラオの娘》
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2006.5.9 東京文化会館



台本:テオフィル・ゴーティエ『ミイラ物語』に基づく、
   J=H.ド・サン・ジョルジュとマリウス・プティパの台本による
   ピエール・ラコット版
演出・振付:ピエール・ラコット
     (マリウス・プティパによる1862年の同名バレエをモティーフとする)
音楽:チェーザレ・プーニ
装置・衣装:ピエール・ラコット

アスピシア(ファラオの娘):スヴェトラーナ・ザハロワ
ウィルソン卿(タオール):セルゲイ・フィーリン
ラムゼ:ナターリヤ・オシポワ






今回は前から3列目、よくない席だった(先行予約でチケットを手配すると席が選べない)。バレエの場合、ダンサーの足先が見えなければ、舞台を見る意味がない……ほとんど見えなかった・・・嗚呼! 

《バヤデルカ》も《ファラオの娘》も、阿片が現実と幻想を繋ぐ。《バヤデルカ》では、ニキヤを死へ追いやった罪悪感を紛らわすためにソロルは阿片を吸い、まどろみの中でニキヤの影を見る。今回の《ファラオの娘》は、こんな風である。若きイギリス人・ウィルソン卿がエジプトを旅行中、暴風を避けるためにピラミッドに非難する。そこで、アラビア商人たちが吸っていた阿片パイプを欲しがり、吸った夢の中でエジプト人タオールに変身し、ファラオの娘と恋に落ちる。・・・なんともバレエらしい、素っ頓狂な筋書きである(そんなところが好き)。

古典バレエには必ず、この世ではない幻影の場が登場する。《バヤデルカ》では〈影の王国〉であり、《ファラオの娘》ではアスピシアが身投げするナイル川の川底である。いわば、この幻影の場面こそがバレエの本質を語るものであり、そのために、筋書きが用意されているといっても過言ではない。死と結びついた厳かな美に、従順になることの至福よ!



それにしても、間近で拝見するザハロワさんの肌は、なんという美しさだろう! うっすらとにじむ汗が、その白磁をよりいっそう輝かせている。一点のくもりもない、永遠の透明感を持ちつつ、人を寄せつけない硬質感もある。とにかく、クラシックバレエの文脈において、完璧な容姿。それに加え、格調高い品格とメランコリックな表現力をたずさえている……奇跡としか云いようがない。おそらく、人類の歴史上、最高の玉座に君臨するバレリーナであることは間違いない。いや、人間というよりも、美の女神とか、美の化身とか……そっちの側であると言われた方が、納得できる。

フィーリン氏は強い個性の中に、やさしい、清涼な風をお持ちの御方。ウヴァーロフさんとはまた違ったダンスール・ノーブルぶりである。エキゾチックな雰囲気があるので、このお役がとても良く似合っていた。ペアとしては、フィーリン氏はマリーヤさんの方がより素敵。ザハロワさんはウヴァーロフさんの方がより似合っていると思う。当初の予定では、ラムゼ役をマリーヤさんが演じる予定だった。嗚呼、お二人の競演がまた観たかったです。



ボリショイ的な、圧倒する華やぎを持った演目でした。



会場の外に、馬がいた。もしや?と思っていたら、舞台に登場した。馬もがんばっていた。


DATE: 2006/05/26(金)   CATEGORY: バレエ・ダンス
ロシア国立ボリショイ・バレエ団《ラ・バヤデール》
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2006.5.3 東京文化会館



台本:マリウス・プティパ、セルゲイ・フデコフに基づく
   ユーリー・グリゴローヴィチ版
振付:マリウス・プティパ
改訂振付:ユーリー・グリゴローヴィチ(1991年)
音楽:ルートヴィヒ・ミンクス
装置・衣装は、ワレリー・レヴェンタリィの始動による1877年原点の復元

ニキヤ:スヴェトラーナ・ザハロワ
ソロル:ニコライ・ツィスカリーゼ
ガムザッティ:マリーヤ・アレクサンドロワ






奇跡の配役に、開演前から打ち震えていました……最も敬愛するバレリーナ、ザハロワさんのニキヤと、先日の《マラーホフの贈り物》ですっかり魅了されたマリーヤさんのガムザッティです! これから、めくるめく孤高の美が繰り広げられる高揚感を、腹心の友とふたり、ひしと分かち合いながら厳かに着席・・・気分のみ、ボリショイ劇場にて・・・「ズドラーストヴィチェ!(注:おしどり探偵のタペンス風に)」



紗幕のエキゾチックな金模様が、観客の想いを受け止めるように、かすかにゆれている。そのむこう側に、野趣あふれる《バヤデルカ》の舞台があらわれてきました! 嗚呼、やっぱり《バヤデルカ》は、荒々しさが籠もっている方が好き。それがいかにも、大ロシアの野趣である。野暮ったさと紙一重の野趣を、歴史に裏打ちされた「誇り」が毅然と貫いている。洗練は知性の作業だけれども、野趣は風土の産物。古典バレエという普遍性の美のうちに、伸び伸びと存在する辺境性のなんと清々しいこと!

やはりザハロワさんはキーロフ(現・マリインスキー)的。ボリショイの大きな華やぎの中に、冷たさをたたえ、孤高に、超然と、佇んでいる。肌の質感が、他の誰とも違う。白磁の透徹にしっとりとした湿度を含んでいる。この世にとどまりながら、この世の誰よりも強く彼岸を望んでしまった悲劇が、その肌に刻印されている。全身からにじむメランコリーは、その悲劇性ゆえ。

マリーヤさんの、おおらかで大きなこの存在感はなんだろう! とにかく、全てがゴージャスである。肌が熱情で高揚している華やぎがありながらも、お人形のような血の気のない死の匂いも含んでいる……これからのクラシックバレエ界を間違いなく担ってゆくお人である。(マリインスキーのテリョーシキナさんとの対比も似合いそう) 

ソロルをめぐるザハロワさんとマリーヤさんの競演は、物語・舞踊・音楽が一体となった輪郭をくっきりと造形し、抽象的な「想い」を舞台上に彫刻してゆく。ニキヤの死までのこの造形こそが、阿片の幻影となってあらわれる〈影の王国〉を、神聖なものへと導いてゆく。〈影の王国〉が象徴する、この世とあの世のあわいへの憧憬、恍惚、それゆえの悲劇と孤独……ニキヤのたましいそのものである〈影の王国〉を通して、それらを観客のこころのうちにしっかりと浸透させる準備は万全に整った! 



お顔がプリンス似のニコライ様は、うわぁ……なんてなんて優美な踊りなのでしょう! 特に、下半身のムーブメントの典雅さといったら、うっとりものである。この優美さは、方向性が違えどマラーホフさんと互角。マラーホフさんのそれは清楚でやや硬質な肌合いの中に柔らかさを表現するけれども、プリンス様のそれは、奔放でエロティックな柔らかさである。しかしそのエロティックには生々しさがいっさい存在しない。大きく伸び伸びとしていて、とても気持ちが良い。「これぞボリショイ!」という感じ(私の中では)。そんなプリンス様にはこの演目がこれ以上ないというぐらい似合っていると思う。

朝日新聞のインタビューに答えて「金髪だったらもっと日本で人気がでたかも」とナイーブなコメントをしていた彼……(映画『エトワール』の中でも、金髪の若い男性ダンサー人気は日本に特有の現象、と語られていた……)。髪の色というよりも、単に知名度の問題かと思いますが。すっきりした美青年ではないけれど、その優美な技はそれを凌駕していましたよ! パラジャーノフ監督の映画群の、あの絢爛な土着性を思わせる濃厚な存在感がありました。←この文脈で、人気急騰の可能性?!



そして、〈影の王国〉。

嗚呼……この世の果ての、最上級の、たましいをゆさぶってやまない〈影の王国〉でした。息ができないほどに、美しく、神々しい……。コール・ドの魔力に、たましいを奪われたひととき……本当に、「ニキヤの影」でした、霊感すら、感じられるほどに。整然と揃うことがコール・ドの本質ではない、ということをはじめて体験した舞台……32人のコール・ドが、ある種のヴォリュームとして、舞台空間を精緻に変質させてゆく。ニキヤの死、ニキヤの影、ニキヤのたましいが、かたちを造形しないヴォリュームとして、確かに存在していた! 

「死とは意志なのだ」と思わずにはいられない。消滅ではなく、この世に何かを残してゆくという強い「意志」。バレエ芸術の根幹にある普遍性に死の匂いを嗅ぐのは、そのせいではないかと思う。死にふれることは、美に打たれることでもある。死によって残されるものとは、「美」いがいの何ものでもなく、死とは、美を残し、繋いでゆく強い意志なのだから(死と美の尊さに無知ゆえ、古き良きものを破壊することに、何のためらいもないのだ!)。

コール・ドの存在性とはまさに、死に代表される抽象的でかたちをなさない想いや意志というものを、この世に現存させることなのですね。〈影の王国〉の死のボリュームから、ニキヤの狂おしい想いが溢れ出ている……コール・ドの端々の不揃いは、その結果なのです・・・嗚呼、なんてなんて麗しいのでしょう! 

コール・ドが舞台に現れる構成が他のバレエ団の版と大きく違うのも、効果的なのだと思う。通常は、舞台上手上方から列をなし、下手付近でいったん折り返し、そののち、正面舞台へと整列する。しかしボリショイの版では、舞台中央の幻想の山々を思わせる小高い位置から、まずは下手にむかって登場し(ひとりひとりのバレリーナをまずは見せる効果がある)、すぐに折り返して上手へ向かう、そしてまた折り返し下手へ、そして上手へむかい、舞台へ到着。つまり、正面舞台へ整列するまでの流れが遠近法を利用しているゆえ、より幽玄な世界になっていた。

ボリショイとキーロフ。質感の違う、大輪の華が咲き競う舞台……この、それぞれが光を放ちつつまた、お互いを照らし出すような舞台の絶妙に、よりいっそう、こころが揺さぶられた。バレエを超えたところにある果てしない流れのようなものや、存在のうねり、茫漠とした気配や鋭利なまでの儚さなど……言葉に還元できない偉大なる何かに、劇場全体が包まれたひととき……劇中、泪が止まらず、今日の日を感謝するばかりでした……



全幕物のバレエを、ヨーロッパの名だたるバレエ団をはじめ、日本のバレエ団でもひとしきり拝見してまいりましたが、自分好みの美の極限という意味では、今回の公演がこれまでの一番でした。マリインスキー・バレエはまだ未体験なので、来日公演が今から楽しみです(指揮:未定となっていますが、ゲルギエフ氏が来日の予定では?)。

今回の公演タイトルがなぜ、ロシア語の《バヤデルカ》ではなく、フランス語の《ラ・バヤデール》なのかは謎。



★プリンス様・後日談★
《ファラオの娘》公演当日、客席の最前列の端にて、客席を眺めながらご友人としばしご歓談されていました。まわりの観客は彼と気づかず(彼が誰かわからず?)、特に気にもとめていないご様子・・・わたしと友人の脳裏には即座に「金髪だったらもっと日本で人気がでたかも」がうかび、「そんなことないよ」「貴方様は優美です!」とこころの中で叫びながら、いかにも彼に気づいて話題にしている風を控えめにアピールしておきました。プリンス様、ダスヴィダーニャ!

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