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The Art Notes to the Swan of Tuonela トゥオネラの白鳥に捧ぐ鑑賞ノート
死の國トゥオネラには 黒い水が流れる川がめぐり その水辺を白鳥が 荘厳にゆっくりと進んでいる
DATE: 2005/11/11(金)   CATEGORY: 演劇・舞台芸術
シルク・ド・ソレイユ《アレグリア2》
2005.11.11 原宿・新ビッグトップ


退廃的メルヘンの世界、洗練と郷愁の麗しさ!



詳細はいずれ書き込むとしよう
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DATE: 2005/08/25(木)   CATEGORY: 演劇・舞台芸術
シルク・ド・ソレイユ《キダム》
   過去の鑑賞ノートより……
   2003.5.5 原宿・新ビッグトップ


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    Veronique Vial《Wings ― Backstage with Cirque du Soleil》



   町中の壊れたる時計いっせいに真夜中を指しヴィオロンの鳴る   

   

   回る回る独楽の行く先誰知らぬ 家路を忘れまた此の地へと

   
 
   遠き日に出会いし村の踊り子の華奢なつま先斑になりて

   

   草原の月下の群の足跡の傍に時計草また明日ひらく



DATE: 2005/05/07(土)   CATEGORY: 演劇・舞台芸術
ジンガロ《ルンタ》
2005.5.7 木場公園内特設ステージにて

4月に引き続き二度目の観劇。後方席で拝見すると、あるひとつの世界を外側から俯瞰している図となり、少々感動が薄かった。やはり前列で観るべし。但し、赤土の中央にスポットがあたるいくつかのシーンは、より西洋絵画の世界観が横溢して美しかった。

ラストシーンはやはり納得がいかない。

http://www.zingaro.fr/zingaro/master.htm




DATE: 2005/05/07(土)   CATEGORY: 演劇・舞台芸術
ジンガロ《ルンタ》
……過去の鑑賞ノートより

2005.3.20 木場公園内特設ステージにて
コンセプト・舞台装置・演出:バルタバス



フランスの騎馬オペラ・ジンガロ《ルンタ》……期待はふくらんでいましたが、拝見する前の苦手度数は50%、危惧していた点もいくつかありました。

1.チベット僧の声明、チベット文化をベースにしている舞台なので、「土着(異文化、≒辺境文化)」の扱いの問題について。西洋人にありがちな、異文化礼讃のストレートすぎる表現への違和感。

2.主宰のバルタバスさんのお写真や映像が殊にシャーマンチックなので、精神世界へ偏向したように「見える」舞台への違和感。精神世界を描くのは良いんです、そう「見える」のが苦手。


まず、バルタバスさんに心から謝りたいと思います、こんな安易な胸の内で会場へ向かってしまったことを。駅からの道すがら、独身貴族の会三人衆の話題はもっか、「〈洗練された土着〉か否か?」……


結論から言えば、〈美、ここに極まる!〉

西洋人の作る古典的な舞台でした。新しい芸術として語られるよりも前に、西洋古典絵画やクラシック音楽、バレエと同じ文脈で語られるものだと思いました。好き嫌いの問題は残りますが、高度に洗練された、正統な西洋文化の系譜に咲いた華です。

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ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
《悔悛するマグダラのマリア(二つの灯火の前のマグダラのマリア)》



具体的にはまず、陰影の強い照明効果が赤土によって和らげられる不思議。カラヴァッジオ風というよりも、フランスの画家ラ・トゥールやオランダの画家フェルメールの光の手法を連想する。西洋古典絵画をつぶさに紐解いている素地がなければ絶対にありえない絵画的風景。本来ならば苦手なはずの異文化の仮面や衣装(つまり土着表現)が、舞台芸術の美としてひれ伏してしまうのは、普遍性という名の西洋を通過しているから。

次に、中央のドーム状の紗幕、その内側の光景の見えが、光の加減によってグラデーション的に変化すること。光の加減で、紗幕の外の円形状の舞台を闊歩する馬が、時に影絵のようになる不思議。そして馬の動きによって舞い上がり、一瞬、靄をつくる赤土。香辛料に似た香りのあらわれと消失、声明に重なる馬の微かな足音……特に赤土の存在に寄るところが大きいが、それらが相俟って、観る者の記憶の糸をたぐるような効果になり、円形の閉じた舞台が広大な土地や歴史を含んだ濃密な空間になっているにもかかわらず、清々しい風が吹き抜ける妙! またそれがあくまでも淡々と進行していく様子!

そして、馬と人の時間。

わたくし達がこれまで知っているのは、人間の時間感覚を基軸に、演出・構成されている舞台。サーカスなどの動物が参加する舞台も、あくまでも人間の時間感覚で動物が調教されている舞台。舞台ではないけれど、動物をある一定時間撮影しているものの鑑賞であれば、動物たちの時間を人間の時間感覚で見ているもの。

しかし、今回は、そのどれにもあてはまらない。馬の時間(がどんなものか知らないけれど)と人間の時間が確かに親和的に存在していた。それを安易に言葉で協調関係とは名付けたくないけれど、素直にそうなのだと思う。だから、これまでの舞台に見慣れているわたくし達には、時に間延びしていたり、逆に速すぎたり、舞台構成のキレを甘く感じる場合もあるのかもしれない。でもそれは、初めて体験する名付けられない時間感覚ゆえなのだと思う。

5時に始まり、7時に終わった。この「2時間」という感覚。今までは、素晴しすぎてあっという間だったとか、つまらなくて長く感じたとか、その2点線上のどこかに位置する2時間。しかし……妙な2時間でした。

絹モスリンの細い旗のはためき、バルタバスさんのロングポンチョ風の黒の衣装のゆらぎ・・・静かである。馬の足音・・・静かである。円形の舞台を疾走する馬の風景もまた・・・静かである。エンターテイメントや曲芸、また逆に、コンテンポラリーから照射したアートを求めてしまうと、この静けさに物足りなさを感じてしまうかもしれません。



バルタバスさんは確かに馬を調教してはいなかった。しかし、異文化を普遍性という名で調教していた。これが西洋人の美に対するプライドであり愛情表現であり偉大さであり、本当の意味で、異文化への敬意のあらわれなんだと思いました。素晴しいの一言に尽きます。

それをひとつの芸術まで高める、その技術は決して一夜にしてできたものではない。脈々と受け継がれてきた芸術言語で、ひとつひとつのディテールを気の遠くなるほど丹念に緻密に積み重ねてゆく……これこそ普遍性たる所以、そしてこの先にしか、真の現代性はないように思います。その歴史を踏まえて否定することと、その歴史に無頓着に現代性を問うことでは、天と地ほどのひらきがある。精神性や身体の感受性に表現の由来を偏向させることは、ともすると、歴史への無頓着を容認する姿勢に繋がってしまうのではないかしら・・・現代性を目指す場合。


優劣の問題ではなく、土着はある程度調教しなければ普遍的な美に到達出来ないほど、その土地(生活)に根ざした野性なのだと思う。例えば日本人が安易に日本舞踊とバレエの融合とか、日本文化と西洋文化をつなげることをしたがるけど、十中八九失敗しているのは、この視点に盲目的だからに他ならない。以前拝見した笠井叡さん振付の《レクイエム》が、世界的ダンサー、ファルフ・ルジマトフさんの身体をもってしても昇華できなかったのは、ダンサーの力量の問題ではなく、この視点欠如のコレオグラフィーだったからだと思います。


しかし……この猛烈なまでに研ぎ澄まされた美意識と西洋文化結実の舞台のラストシーンが、何故、あれなのでしょう? なぜ、直前までの美学とラストシーンのローカル性が同居できるのでしょう? あの直前で舞台は終了していたのかしら? カーテンコールの変種とか? 以前拝見したフランスのシネ・テアトル『マルシエル』もメッセージ性が強い舞台で、ある種それがローカルにもうつった。

完全無欠の美の合間に挟み込まれる、ガチョウやホネホネロックのお衣装の群舞のお茶目さは大好きでした。



ジンガロの土着・普遍性の表現と同じ構造を持った舞台……日本にありました。坂東玉三郎さんが演出した鼓童の舞台「佐渡へ」(2003年)、同じ論理・構造を持った舞台だと思います。こちらも素晴しいの一言に尽きました。


嗚呼、美は極限に存在する!





DATE: 2005/05/06(金)   CATEGORY: 演劇・舞台芸術
美輪明宏《黒蜥蜴》
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2005.5.6 ル・テアトル銀座にて



戯曲そのものを読んでいないことが悔やまれた。江戸川乱歩さんの設計図を借りて美の宮殿を屹立させた三島由紀夫さんの美学しかありません、此処には。特に、明智小五郎と雨宮潤一の身体を通して、美に魅入られた果てに死を選んだ者の独白を語らせています。むしろ、美輪明宏さん扮する黒蜥蜴が狂言回しのように見えます。嗚呼、こんな科白を吐いちゃったら、死ぬしかないわ……。戯曲があまりにも素晴しいので、舞台化は美輪明宏さんを持ってしても拮抗するのは難しいと感じましたが、戯曲に対する敬意、演じるものと作者との関係に好ましいものがありました。

この舞台で、科白以外で一番美しかったもの……それは、木村彰吾さん扮する雨宮潤一のトラウザーズの存在。亜麻色の上質な純毛の控えめな光沢としなやかさ。それが歩くたびに足の動きから少し遅れて足に添うはためき、そこにだけそよ風が吹いている色っぽさ、折り目の正しさは象牙の塔のごとし、裾がためらいがちに靴に触れる一刹那にこぼれる靴音……嗚呼、このディテールこそが、唯一戯曲と拮抗しうる美の結晶でした。美の独白にふさわしいこの風景……三島由紀夫さんもきっと泪するに違いありません。

歌舞伎を見慣れているせいか、どうしても、脇役の方々の姿勢の悪さや細部の荒っぽさが目につきます。高嶋政宏さん扮する明智小五郎は役不足を否めません。この明智小五郎の科白を昇華できる人間がこの世に存在するのか、そもそも疑問。三島由紀夫さんの亡霊にでもいずれご登場願いましょう。

三島由紀夫さんが愛し、舞台にかけた日夏耿之介さんの戯曲『院曲 撒羅米』(1960年4月文学座公演、この二年後に戯曲『黒蜥蜴』を発表)……『黒蜥蜴』の戯曲が目指した耽美のうちの残酷を硬質に描く手法は、『院曲 撒羅米』で頂点を極めているように思います。




DATE: 2005/04/03(日)   CATEGORY: 演劇・舞台芸術
《SHAKESPEARE'S R&J》
過去の鑑賞ノートより……
2005.2.3 パルコ劇場にて 



繊細さを誇るバレエダンサー首藤康之さん、シェイクスピアの翻案劇、そして舞台は厳格なカソリック系の全寮制男子校・・・とくれば、拝見しないわけには参りませぬ。

戒律に支配された生活の中で、禁じられたシェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』を朗読し始める4人の生徒。読むことに飽き足らなくなった彼らは、寮を抜け出し、演じ始める・・・戯曲の中で描かれる情欲・敵意・羨望・殺意・愛情などが、あたかも現実のように血肉化されてゆき、少年から青年への移行期にある多感な彼らに、影響を及ぼしてゆく・・・という内容。

登場人物は4人の生徒のみ。舞台装置も簡素で、中でも印象的なのは、小道具の赤い布が、ある時は感情のほとばしりの象徴として、またある時は死を意味するものとして変化していく不思議。ロミオとジュリエットの禁断の接吻が、そのままカソリック系の男子生徒同士の禁断の接吻へと重なる様も絶妙。脚色・演出を手がけたジョー・カラルコさんはしきりに同性愛的視点がないことを強調していますが、同性愛的美学と洗練に満ちあふれている作品だと、素直に賛美したい気持ちでいっぱいです。

・・・が、繊細さの表現に欠けます。「少年から青年へ・・・」こんなにも魅力的な命題に、繊細さ抜きで挑むことにはかなり無理があると思いました。シェイクスピアの端麗な文を堪能するには、少々演技が未成熟。これが映画であれば、同キャストでもより繊細な描写が可能かと。

それにしても、シェイクスピアの普遍性って、やっぱりすごい。時代や空間をどんなところに移しても、色褪せない。バズ・ラーマン監督の『ロミオとジュリエット』はその洗練ぶりでは随一だと思います。背中に十字架の刺青を持つ神父様なんて、素敵じゃありませんこと? 

http://www.shakespearesrandj.com/

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